2022年7月3日 更新

人名が付いたハイフェッツ病ってどんな病気?天才が残した偉大過ぎる天災とは

努力しても才能を持った人に勝てないのが現実。そんな一握りの天才たちは歴史に名を刻み、功績として語り継がれていきます。しかし天才すぎるがあまり、病気まで作り出してしまったのはハイフェッツただ一人。たった1人の天才が生み出した奇病とはどんな病気なのでしょうか。

1906年

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当時5歳のヤッシャ・ハイフェッツは、周囲の計らいで公開演奏会を開催しました。その演奏を聞いた人々は歓喜し、改めてヤッシャ・ハイフェッツの才能を称賛します。5歳という年齢がピルノ帝室音楽院の入学条件を満たしていなかったものの、素晴らしい才能が認められ異例で入学することができました。

1907年

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ピルノ帝室音楽院での活躍、コブノ市で行われた演奏会の音色があまりにも素晴らしすぎて、ヤッシャ・ハイフェッツの名前はロシア中に広がりました。そのため当時ロシアでは”ヤッシャ”という名前が大流行します。

その頃、ヴァイオリン奏者としても、教育者としても有名だったハンガリー出身のレオポルト・アウアーがヤッシャ・ハイフェッツの住んでいる地域を訪れました。教えを乞うためオーディションを受けようとしますが、1度断られてしまいます。

しかし諦めきれず、ヤッシャ・ハイフェッツは彼の前でヴァイオリンを演奏して見せました。あまりの音色に言葉を失ったレオポルト・アウアーは、ヤッシャ・ハイフェッツを抱擁し、教育することを約束します。

1908~1912年

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7歳で、国際博覧会という大きな舞台でデビューを飾ったヤッシャ・ハイフェッツ。ヤッシャ・ハイフェッツは演奏会を行いながら、音楽院に通い、さらにヴィオラやピアノも学ぶ多忙な生活をおくりました。

10歳になる頃には、コンサートでの演奏がさらに増えていきます。野外音楽堂などでも積極的に演奏していましたが、あまりの才能から聴衆が大興奮となり、警察が出動することもありました。

ヨーロッパにまで名前が知れ渡ったのは、ヤッシャ・ハイフェッツが11歳の時。ロッシュビッツの音楽会で演奏し、批評家の晩餐会にも招かれるように。

1913~1922年

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12歳以降は、ドイツやヨーロッパ、オーストラリアなど様々な場所で演奏するように。各国で称賛を浴び続けたため、報酬もどんどん上がっていきます。次第にヤッシャ・ハイフェッツの家族は、ヤッシャの稼ぎを当てにするような生活をおくるようになりました。父親の指導も、激しさを増していったようです。

ハイフェッツ病が誕生したのは、ヤッシャ・ハイフェッツが各国を飛び回っていた13歳の頃。ベルリンで行われた演奏会の後、有名ヴァイオリン奏者2名は自らの才能を諦めたと言われています。

1923~1949年

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ヤッシャ・ハイフェッツは、21歳でアパートを購入し、家族と距離を置くようになりました。購入先は、ニューヨークです。その約3年後の24歳の時、アメリカの市民権を獲得します。

その後はアメリカを拠点に、パレスチナや祖国ロシアなどでも演奏を行いました。演奏料を全額寄付したり、持っていた特別なヴァイオリンをニューヨーク市長に提供するなど、あまりお金に囚われない生活をおくります。

またプライベートでは、フローレンス・アート・ビドーと離婚。ヤッシャ・ハイフェッツが44歳の頃の出来事です。

1953~1987年

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離婚から1年後には、フランシス・シールズ・スピーゲルバーグと再婚しますが、2年間の舞台休演を発表。復帰後も暴漢に襲われたり、脅迫電話を受けるなど騒がしい日々が続きました。

演奏活動から完全な引退を発表したのは71歳の時。晩年は、肩の手術を受けるなど健康面にも不安を抱える日々をおくります。ヤッシャ・ハイフェッツが亡くなったのは、86歳の時。1987年、ロサンゼルスで受けた外科手術の後に亡くなりました。

ヤッシャ・ハイフェッツの名言

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第三者を闇落ちさせてしまうほどの才能を持った、ヤッシャ・ハイフェッツ。彼は、数々の名言を残しています。残された名言から、天才とはまた違った一面を知ることができるでしょう。また、現代の一般人もハッとさせられるものも。ヤッシャ・ハイフェッツが残した名言と、その意味について詳しく解説していきます。

1日練習しないと自分にわかる

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ヤッシャ・ハイフェッツが残した名言の1つが、”1日練習しないと自分にわかる”というもの。この後に”2日だと批評家にわかる””3日になれば聴衆にわかる”と続きます。天才・神童と言われ続けたヤッシャ・ハイフェッツ。

練習などしなくても、素晴らしい音色を奏でる偉人と思われていますが、誰よりも練習の大切さを理解していたのでしょう。さらにこの名言から、自身に対する厳しい目を持っていたこともわかりますね。

人は第三者に批判され初めて自分の愚かしさを理解しますが、ヤッシャ・ハイフェッツは、自分の愚かしさに最初に気付くのは自分自身だと言っているのです。そして、そうであるべきとも伝えているのでしょう。誰のためでもなく、自分のために努力し、周囲の評価は後からついてくるものだと教えられる名言です。

頂上などない

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ヴァイオリン奏者として、頂点を極めた人物と言われるヤッシャ・ハイフェッツ。類まれな演奏技術を持っていたことから、”ヴァイオリンの王”とさえ言われていました。しかし彼は、こんな名言を残しています。”頂点などない。常に到達すべき更なる高見があるのだ”。

この名言から、ヤッシャ・ハイフェッツは自分の実力に、最後まで満足していなかったことがわかりますね。いつまでも満足しなかったからこそ、日々練習という努力を続けられたのでしょう。

ハイフェッツの真の凄さはヴァイオリニストにしかわからない

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ヤッシャ・ハイフェッツを評価した名言もご紹介します。ウクライナ出身のヴァイオリン奏者ナタン・ミルシテインは、ヤッシャ・ハイフェッツの演奏を聞き、こんな名言を残しました。その道を進む人でしか、正しい判断・評価ができないのは当然。

ヴァイオリン奏者の凄さは、同業のヴァイオリン奏者でなければわからないものなのです。そして人を評価する時、評価する側が評価される側よりも劣っていては正しく評価できませんよね。自分より優れた人を、どうやって優れていると評価できるでしょうか。

つまり、ヤッシャ・ハイフェッツの真の凄さを評価できる人など、ヴァイオリン奏者の中にも世界中にもいなかったのではないかと想像できます。天才は孤独とはよく言ったもので、それほど高次元にいたヤッシャ・ハイフェッツ。大勢に称賛されたものの、結局誰一人彼の真の凄さを理解できず、孤独な面も持っていたと考えられます。

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